匠技の居所

鴨長明 方丈石

世の流れ

 還暦を迎え、今の政治に愛想を尽かしても、人の世は川の水と同じように流れて、同じ世に見えても五十年も経てば世を動かす人は今の人であるはずはない。今が三流の政治であっても、十数年後にはせめて二流ぐらいになっていて欲しいものである。

 そういうことを考えていると、あの鴨長明を思い出してしまった。

2012年10月14日(日曜日)

日野の鴨長明氏の方丈跡地

 2009年6月28日仕事にあぶれて、ぶらぶらとあてどもなく醍醐から日野の辺りを散策していると、何かの目印を見つけた。鴨長明の庵の跡地があるという。まぁ、時間が一杯あるのだから、ちょいと寄り道してみようと山手の方にいくと、アスファルトから本格的な山道になり、不安を覚えたのを思い出す。健脚ゆえ、途中で挫折することはあるまいが、初夏のこと、虫と蛇に襲われることが頭によぎる。

 不安を覚えながらも、山道を行くと、比較的すぐに、方丈跡に辿り着く。長明は何故にこのような山間というか、林間に庵を作ったのだろうと疑問に思った。世捨て人といえども、大原や嵯峨野の平野部に何故隠棲しなかったのだろう??よりによって、獣道の途中ではないか?彼がここに住もうと決心した時の精神状態はなんだったのだろう。

       

 山深いとは言えないが、山中の岩の上に住もうと思い立ったのはあまり人とは関わりになりたくなかったのであろう。リーマンショック後の不景気の最中、将来に不安を覚えていた私に鴨長明という挫折を経験した方の庵跡を見て、世捨て人の処世とはどのようなものか、学んだような気がした。

ゆく河の流れは絶えず

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし

 中学、高校時代に学んだ時より、人生を経れば減るほど、この文言は心に響くものがある。響いても心が明るくなるわけではない。無常感の寂しさを感じるのである。そして、この言葉は晩秋において意味することが増幅されるようである。「国語」「古文」で習った時代は、文字を目で追って覚えるだけであったが、歳を取るとそこに感性を感じることができる。年齢を重ねるということはありがたいことである。

2012年10月14日(約11年前)