匠技の居所

最後のお別れは自分

あるラジオの番組を聞いていて、「なるほど」と思ってしまった。 60年以上生きていると、何十回と葬式に行き、「お別れ」の儀式をして葬送してきた。両親は勿論、友人、知人、近所の人などを見送ってきた。

自分では気付いていなかったが、一番最後に見送るのは「自分」だとやっと気付いた次第である。いつかは、死というものが自分にも来るとは思っていたが、自分で「自分」をお別れするという感覚はなかった。 しかし、「お別れ」の中で一番大切なものは、自分なのだ。死に際して、思うことは一杯あるだろうし、死ぬまでの間に一杯、思わなくてはいけないのだ。何故なら、目を閉じてしまったなら、「思う」という事、感傷に浸ることはできないのだから。


3月末から4月初めの21日間、突然の肺炎で、入院を余儀なくされ、10日もの間、絶食点滴治療をしてしまった。自分が、入院する程の病を持った事に戸惑ったものである。今も完治はしていないが、全く、「死」というものが自分に訪れるとは思っていなかったので、人生に対して反省もせず、ひたすら、健康になることだけを考えていた。後から、医者から聞いた話では、入院当初は、検査の数値的に危険な状態であったらしいのだが、幸いな事にしんどいながらでも、改善していった。

今から思うと、あのまま入院せずに、敗血症などになっていたら、もしかしたら、病の床で、意識しないまま、自分に対して「お別れ」の挨拶せずに旅立つことになったかもしれない。

2019年5月1日(約5年前)に記す


ここ数年、葬式に行くことがなく、を意識する事があまりなかったが、さすがに、七十歳近くなると、老と病の苦に苛まれている。四苦(生老病死)とはよく言ったもので、若いころは気にしていなかったが、今は駄目である。自分の老け顔に対して、こんな顔になったかと意気消沈し、腰痛、膝痛、肩痛等々痛みを伴う症状に通院で抑える日々である。亡き母がよく口にしていた「将来の生活の不安」を自分も感じるようになってきている。もしかしたら、生老病死の生は、生を迎える出産の苦ではなく、生活の生ではないだろうか?

2020年10月24日(約3年前)に書きました。